先物取引の歴史

米市場の始まり

江戸時代の幕藩体制は「石高制」で、武士は給料として受け取った米を市場で売って現金に替えなければいけませんでした。全国の諸藩は豪商の多い大坂に蔵屋敷を建て、そこに大量の米や特産品を運び込んで換金していました。大坂は、秀吉が大坂城築城の際に数万人にもおよぶ職人たちの食料を賄うために、加賀前田藩から10万石の米を搬出させて以来「天下の台所」と言われた地だったからです。

この前田藩からの米を一手に仕切っていたのが初代淀屋辰五郎で、彼は徳川政権になっても政権の信用を得て引き続き米ビジネスを左右する存在でありました。いつしか淀屋の庭先には換金用の米を売買する商人たちが集まり「淀屋の米市」と呼ばれるようになります。この当時の売買は、竹製の米指札(米手形)を使い、手付けの金を銀で払う先渡し繰り延べ取引でした。先物取引の単位を「枚」と呼ぶのは当時から米手形を1枚、2枚と数えていた点に由縁すると言われています。

米手形取引

米手形取引は、米商品が落札した蔵米に対して蔵元が30日以内の受渡期限を定めた米手形を発行します。商人はこれを30日以内の適当な期日に蔵元に持参して米を引き取るのですが、手形を発行してもらう際に、期日内の担保金として「総代金の三分の一の敷銀」を蔵元に預託しなければなりませんでした。

米手形はいつしか、米手形そのものが転売されるようになりました。こうなるとマナーゲームで、受渡期限が来ても繰り延べされるだけで、いつまで経っても現物決済が行われないまま手形だけが流通する事態となります。転売買が繰り返されるので相場は上がり、しかもそれは現物決済がなされないので裏付けのない相場が一人歩きする状況でした。そして幕府により(1654年)この米手形取引は禁止されることとなります。

幕藩体制の矛盾

しかし、それでも商人たちはしたたかでしぶとかった。というよりも、寛永12年(1635年)に始まった参勤交代もあって諸藩の財政は極度に悪化し、その年の秋に収穫される米である「秋なりもの」だけでなく、「翌年の秋なりもの」まで先売りする諸藩がでてきたのです。諸藩財政を裏面から支えていた商人蔵元や両替商たちも先約定の取引を止めるわけにはいかなかったのです。

幕府財政も、明暦の大火(1657年)を契機に赤字に落ち込み財政再建を果たせぬままにすぎていましたが、元禄時代(1688年~1703年)に入ると幕府の財政はさらに逼迫してきます。元禄八年には財政再建のために貨幣改鋳によって水増しした通貨が増発され、激しいインフレを招き、米はもとよりあらゆる商品が高騰します。幕府は末期的な経済状況の責を大坂の商人たちに負わせて商人たちの財産没収処分を断行します。当然、最大の豪商であった淀屋も処分を受けることとなりました。

淀屋屋敷跡
インフレとデフレ

幕府は米の需給関係が常に値上がり傾向にあるのは先渡し取引による空米取引が原因と決めつけていましたが、その真実は、戦国の世が終わっても農業生産力が十分に回復していないにも関わらず、元禄の世は消費経済が盛り上がっていた所にも一因がありました。

そこに登場したのが新井白石です。新井白石はインフレを抑止するためにデフレ政策を取ります。その結果、急激な貨幣収縮によりただでさえ瀕死状態であった経済は完全に崩壊します。大不況(元禄バブル崩壊)が到来したのです。米価をはじめ、ありとあらゆる商品の値段が急落し、もはや為すすべのない状況に陥ったのです。

米相場
バブル崩壊後のデフレ不況ってどこかで聞いたことある話だね
米会所の誕生

そして、米将軍と呼ばれた八代将軍の徳川吉宗が登場します。
吉宗は、定免法や上米令による幕府財政収入の安定化、新田開発の推進など米価格を安定させる政策を進めます。その一環で、吉宗の信任の厚かった大岡越前忠相が米の流通と相場維持には先物取引が欠かせないとの判断から享保15年(1730年)大坂堂島に限って米の先物取引市場を解禁することとなりました。これが日本で初めて公に認められた先物取引市場であり、同時に世界初の先物取引市場の誕生となります。

米相場の価格を安定させるのに先物取引は役に立ちました。1年後に米の価格が高くなりそうということであれば米の生産に力をいれますし、価格が安くなりそうであれば他の特産品の生産に切り替えることができます。先物取引で将来の価格がある程度わかっていれば米の生産量を調整することができるというわけです。

米会所の制度の特徴

  1. 1年を3期に分ける先物取引で、それぞれの期末までに転売、買い戻しで差額をやり取りできる。
  2. 市場は、定休日を除いて毎日開かれ、多数の売り手と買い手が競り合って値段を決める
  3. 各藩の蔵米の中で、取引の多い銘柄を選び、その中から1銘柄を毎年、投票で建物米(標準品)に定め、すべてその銘柄で売買する
  4. 約定価格はすぐに明らかにし、同時に旗信号で各地に伝えられる
  5. 市場は幕府の監督を受けるものの自治を建て前とする
  6. 市場そのものの管理とは別組織の清算所で売買の決済と担保の管理を行う

1730年当時にすでに現代の商品先物取引所の骨格部分はすべて網羅しています。
これが先物取引発祥の地と言われている所以です。

相場師
本間宗久や牛田権三郎などの相場師もこの当時に活躍した人たちだよね
相場師
本間宗久はローソク足の考案者だと言われているわね。今でも本間宗久の酒田罫線法は有名よね。
海外の先物市場

海外では商品先物市場がシカゴに誕生したのはそれから約100年後の1848年になります。シカゴ商品取引所(CBOT)は、出来高で1999年にユーレックスにトップの座を譲るまで世界の商品先物市場に君臨し続けた市場です。

シカゴ商品取引所は、担保金の扱い規定や未決済の契約の処理方法などの改善を進め、市場設立の44年後の1882年に「きわめて巧妙な会計処理方法」を打ち出します。その方法とは、売り手と買い手が個別で契約しても、直後に第三者を介在させて売り手対第三者、買い手対第三者の契約に切り替えることで、その関係を実質的な売り集団対買い集団の関係に置き換えるというものです。

つまり、大阪堂島米会所から150年後にして海外で初めて現在の商品先物市場の制度を整えた市場が誕生したことになります。

堂島米市場の跡
コメ市場跡地

2018年に「堂島米市場」を国内のみならず海外へも発信することを目的に新モニュメントが設置されました。デザインは安藤忠雄氏です。お近くに寄られた際には見学に行かれるのも良いとおもいます

>当サイトおよび商品先物取引の注意事項

当サイトおよび商品先物取引の注意事項

商品先物取引は元本や利益を保証するものではなく、相場の変動により損失が生じる場合があります。お取引の前に充分内容を理解し、ご自身の判断でお取組みください。なお、このサイトは情報提供を目的としており、投資の最終判断はご自身でなさるようにお願いたします。本サイトの情報により皆様に生じたいかなる損害については、本サイトおよびその管理者は一切の責任を負いかねます。